変化に対する追い風と逆風、どちらも捉える~佐藤光樹・宮城県塩竈市長インタビュー(1)~

宮城県塩竈市長・佐藤光樹
(聞き手)一般社団法人 官民共創未来コンソーシアム 代表理事・小田理恵子

 

2024/09/25 変化に対する追い風と逆風、どちらも捉える~佐藤光樹・宮城県塩竈市長インタビュー(1)~
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2024/10/03 生まれ育ったまちの未来を描く~佐藤光樹・宮城県塩竈市長インタビュー(4)~

 


 

宮城県塩竈市、佐藤光樹市長のインタビューをお届けします。

宮城県のほぼ中央に位置する同市は、人口約5万2000人のまちです。古くから港町として栄え、近海・遠洋漁業の基地としても発展してきました。しかし2011年の3.11東日本大震災では甚大な被害を被り、近年は復旧復興を優先したまちづくりが行われてきました。

震災から8年後の19年に就任した佐藤市長は、前市長からの復旧復興政策を引き継ぐとともに、これまで着手できていなかった新たな施策も展開しようとしています。次のステージへ変わろうとする塩竈市政の舵をどのように取ろうとしているのか、佐藤市長のお考えに迫ります。(聞き手=一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事・小田理恵子)

 

「新しい風」の期待を受け就任

小田 佐藤市長は19年に首長に就任しています。まずは市長を志した理由や経緯を教えていただけますか?

佐藤市長 私の父は、県議会議員を務めていました。その影響で、私自身も昔から政治に関心があり、塩竈市の行政を俯瞰的に眺めながら、自らも直接関わりたいという想いを長年抱えてはおりました。そこで大学卒業後に議員秘書を務め、03年には宮城県議会議員になりました。県議は4期16年務め、議長も経験させていただきました。塩竈市長に立候補した直接的な理由は、当時の市政に若干の停滞感を覚えていたからです。現職の市長が5期目に立候補するタイミングで、新しい風を吹かせようと私も立候補しました。

それから、実は私の父も過去に市長選に3回立候補しておりますが、全て落選しています。市長を志した理由の中には、父の成せなかったことを代わりに自分が、という深層心理が含まれていたかもしれません。

 

小田 長期政権を担っていた現職を抑えて当選されたということですよね。当時の選挙戦の様子はいかがでしたか?

佐藤市長 対立候補として出ることは非常に勇気が要りました。選挙中は、当選の風向きを感じたかと思えば、落選するかもしれないという状況にもなりました。非常に厳しい選挙戦でした。そんな中、有権者の皆さんに共鳴していただけるよう、自らの考えを訴え続けました。

 

小田 当時、有権者の方々は佐藤市長にどのような期待を寄せていたのでしょうか?

佐藤市長 やはり、新たな変化を求めているように感じました。地域によって状況は異なるので一概には言えませんが、長期政権には功罪があると思います。

塩竈市の場合は、端的に言うと現職の市長が4期務めたことによる「慣れ」が生じていました。市の職員をはじめ市民の皆さんも、市長のやり方や考え方に慣れてしまっていたのです。これは否めないことだとも思います。「慣れ」が良い方向に作用することもありますから。しかし、時代は驚くべき速さで変化しています。市民の皆さんが安心して住み続けられるまちにするためには、当時の塩竈市の行政は変わる必要がありました。

 

小田 そんな佐藤市長の意思が有権者の方に伝わり、当選につながったのですね。

佐藤市長 激しい選挙戦の中で、追い風が吹いていると感じたことがありました。それは、選挙カーで市内を回っているときに、後援会に属していない全く面識のない方から「期日前投票でもうあなたに入れてきた」と言われたことです。

当時の私の状況では、後援会の方たちの票だけで当選することはほぼ不可能でした。浮動票が加わらないと勝てないことが分かっていました。面識のない有権者の方の1票を獲得できたと分かった瞬間、流れがこちらに来ていると感じました。そのような変化のうねりは次第に大きくなり、結果、市長に就任させていただきました。

 

震災復興の課題はハードからソフトへ

小田 触れていいものか迷いましたが、塩竈市にとって重大な出来事の一つに3.11東日本大震災があります。佐藤市長が県議会議員をされていたときの災害でしたが、当時の状況について可能な限りお話しいただけますか?

佐藤市長 本当に悲惨な状況でした。まちは津波で流され、多くの方々が被災した状況を目の当たりにしました。甚大な被害の光景は今でも忘れることができません。この日を境に全てが変わったと思っています。

この経験は必ず未来に生かさねばなりません。危機管理に対する意識は高く持ち続けています。

 

小田 佐藤市長が就任したのは19年で、震災から8年後です。21年に受けられた別メディアでのインタビューでは「東日本大震災からの復興はほぼ完遂した」とおっしゃっていました。前市長から復興政策を受け継ぎまとめてこられたのだと思います。就任時からこれまでの間に、どのようなことを行ってきたのでしょうか?

佐藤市長 18年度末において、復旧復興関連事業の進捗率は90.2%でした。数字だけ見ると大部分が復旧復興したと言えるかもしれませんが、津波被害が最も大きかった浦戸地区については未完遂でした。浦戸地区は風光明媚な4島5地区から成り、市民にとって宝のような土地です。そこで防波堤などハードの整備や、浦戸のブランド化や観光と連動させた新たな産業の誘致を推進してきました。

塩竈市長インタビュー記事写真‗1-1浦戸地区の魅力は特設サイトで発信されている(出典:浦戸諸島公式ウェブサイト)

 

21年のインタビューでは「復興はほぼ完遂」と述べましたが、それはあくまでもハード面の話です。現在は新たな課題も出てきています。一つは市の基幹産業である水産業・水産加工業の販路回復です。3.11の震災で甚大な被害を受けた事業者の多くは、国の持続化補助金により再建を果たしました。しかし、一度失った販路を回復するのは難しいです。震災前の8割の売り上げが戻れば良い方だと思います。

また、住民の心のケアに関しては引き続き丁寧に行う必要があります。被災状況が人によって違いますから、可能な限り個人に寄り添うことが大切だと考えています。

 

小田 復旧復興の比重はハードからソフトに移ってきているのですね。

佐藤市長 震災でご家族を亡くされた方、家を失った方、事業再建の借り入れをこれから返済しなければならない方など、本当に状況は一人ひとり違います。心模様も異なるのは当たり前です。それは比較論で語るものではありません。

「一人ひとりに寄り添う大切さ」は、震災当時の報道の影響で強く実感しました。ある避難所にいる一人が報道カメラの前で「うちの避難所は物資が届いている」と言えば、まるでその地区全体の物資の供給が間に合っているように受け取られます。実のところそうではなく、すぐ近くの避難所には物資がほとんどないケースもよくありました。ですから復旧復興支援は、私たち自身が実際に目にした状況や情報を確認しながら、実行していかねばならないと強く感じています。

 

小田 佐藤市長のお言葉には、大きな災害を体験したからこその「重み」を感じます。

 

 

第2回に続く

※本記事の出典:時事通信社「地方行政」2024年8月5日号

 


【プロフィール】

佐藤光樹・宮城県塩釜市長

佐藤 光樹(さとう・こうき)

1967年塩竈市生まれ。東北学院大経済学部経済学科卒。宮城県議会議員秘書、参議院議員公設秘書を経て、2003年から4期16年間宮城県議会議員を務める。
19年9月に塩竈市長就任。現在2期目。座右の銘は勇往邁進。

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