北海道ニセコ町長・片山健也
(聞き手)一般社団法人 官民共創未来コンソーシアム 代表理事・小田理恵子
2024/12/17 自ら考え行動する住民と行政によるまちづくり~片山健也・北海道ニセコ町長インタビュー(1)~
2024/12/19 自ら考え行動する住民と行政によるまちづくり~片山健也・北海道ニセコ町長インタビュー(2)~
2024/12/24 住民自治により、まちへの誇りを醸成する~片山健也・北海道ニセコ町長インタビュー(3)~
2024/12/26 住民自治により、まちへの誇りを醸成する~片山健也・北海道ニセコ町長インタビュー(4)~
北海道ニセコ町、片山健也町長のインタビューを全4回でお届けします。
日本有数のリゾートエリアとして、海外から注目されるニセコ町。新型コロナウイルス禍以降はインバウンド(訪日客)が復調し、アジア・オーストラリア・米国等から多くの観光客が訪れています。町職員として約30年間のキャリアを経た後2009年に就任した片山町長は、ニセコ町の特性を深く理解した上で「住民主体のまちづくり」を推進してきました。
さまざまなステークホルダー(利害関係者)と連携し、協議を重ねながら進めるまちづくりの様子をご覧ください。(聞き手=一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事・小田理恵子)
インバウンド活況の裏にある20年間の土台づくり
小田 ニセコ町は隣接する倶知安町や蘭越町と共に「ニセコエリア」として外国人観光客の注目を浴びています。最近の報道を見ると急にインバウンドが活況になったように感じますが、実は20年ほど前から観光の受け皿をつくってこられたと伺っています。
片山町長 行政がリードしたというよりも、住民の皆さんが主体となって今の体制をつくりました。その裏には、観光業に従事する方たちの危機感があります。
かつて、ペンションブームによりニセコ町の観光業が好調だった時期がありました。1970年代後半から80年代後半です。ところが90年代に入りバブルが崩壊してからは、延べ宿泊客が年間約70万人から約31万人にまで落ち込みました。再び観光業を盛り立てるには、当時の逢坂誠二町長をはじめ民間の皆さんの間にも「行政依存の観光協会から脱却が必要だ」という考えがありました。そこで、観光協会の株式会社化を進める動きが起こりました。
小田 ニセコ町の観光協会は、2003年に全国で初めて株式会社化しています。行政主体の任意団体に民間資本を入れることについて、反対意見も出たのではないでしょうか。
片山町長 「株式会社にするなんてとんでもない」という意見はもちろんありました。株式会社化することで利益優先の運営になり、資本力のあるホテルやペンションしか生き残れないという意見です。
そこで町民100%出資の予定から、株式の50%を役場が持つことになりました。公共性を担保するためです。役場の株主は住民の皆さんと言えますから、観光協会は全住民が参加する株式会社の位置付けとなりました。株については1株5万円で住民の皆さんが購入できるようにもなりました。
これらの活動は、民間主導で進めてきたことです。その後の観光協会の運営は黒字が続いており、現在のインバウンド需要にも対応できている様子を見ると、町の観光業の可能性は大きく広がったと思います。
小田 ニセコ町の総合計画には、まちづくりの基本として「情報共有」と「住民参加」が挙げられています。観光協会の株式会社化は、まさに住民参加のたまものですね。
片山町長 「情報共有」と「住民参加」は、逢坂元町長の頃から大切にされてきたキーワードです。町運営の基本姿勢として官民共に貫かれています。ニセコのまちづくりは観光も含め、住民の皆さんによるものだと言っても過言ではありません。
観光協会を株式会社化する際には、民間の方たちが自主的に調査を行いました。その報告を聞いた時には、先見の明に驚きました。当時から将来の人口減少を見越して、インバウンドに注力する方向性を示していたのです。すでに観光地として人気を博していたフランスの傾向を分析し、近隣諸国からのリピーターが多いことを突き止めると、「東アジア観光客誘致協議会」を結成し、香港や台湾に向けて誘致活動を行いました。
行政だけでは、このような動きはできません。民間の皆さんのスピード感と柔軟な対応力があったからこそ、観光協会の株式会社化は実現したと言えます。
小田 20年前から着実に築いてこられた土台が、今のニセコ町の観光業を支えていることがよく理解できました。
国内外から注目を浴びる「ニセコルール」
小田 ニセコ町は米紙ニューヨーク・タイムズなどに「パウダースノーの聖地」として取り上げられたことをきっかけに、世界から注目されるようになりました。スノーリゾートを楽しみに来る観光客は、どんなところに感動しているのでしょうか?
片山町長 1月から2月にかけて圧倒的に降るパウダースノーの様子です。山奥ではなく、住民生活のエリアから車で10〜15分ほどの距離でその様子が見られることに感動しているようです。「こんな光景は世界の中でも非常にまれだ」と、世界中のマスコミに取り上げていただきました。海外メディアは「ニセコルール」に対する関心も高いです。
小田 「ニセコルール」は、スキー場利用者の安全のために設けられたものですね。
片山町長 「ニセコルール」は、スキーコース外での雪崩事故を防止するために2001年に作られました。スキーヤーがパウダースノーを求めてコース外で滑走し、雪崩に巻き込まれる事故が後を絶たなかったからです。これに関しては観光振興という考えは全く含んでおらず、とにかく事故を無くしたい一心で取り組みました。
最新版の「ニセコルール」(出典:ニセコ町ウェブサイト)
雪崩事故が起こると、行方不明になった方の捜索に役場の職員も加わります。数十人、時には数百人単位で危険と隣り合わせの中で探すのですが、悲しい結果となることも多く、駆け付けたご親族にそのことをご報告せねばならないときには、ただただ辛い思いしかありません。
こんな不幸は二度と起こしてはならないとして、冒険家であり雪崩研究家の新谷暁生さんを中心に、日本雪氷学会や弁護士の先生方、そして行政も含めて事故防止のための会議(雪崩ミーティング)が始まりました。今から約30年前のことです。当時の私は町職員で、事務局長として参加していました。
小田 「ニセコルール」に関しても、民間の皆さんと共に作られていったのですね。
片山町長 新谷さんはニセコ町のロッジオーナーの方ですが、ヒマラヤ・チャムランやアルゼンチン・アコンカグアなど世界の高山へのアタック経験をお持ちで、山の気候のプロフェッショナルです。「ニセコルール」の策定には多大なる貢献をしてくださいました。
実は最初からルールを作り始めたわけではありません。まずはスキーヤーの皆さんに注意喚起を行うために、新谷さんによる雪崩情報(「ニセコなだれ情報」)の発信から始まりました。それでもコース外に出るスキーヤーが後を絶たないため、「スキーヤーの自由を尊重しつつも事故を防止するためには?」という観点で議論が重ねられました。そうした結果、コース外に出るゲートを作ってルール化することになりました。これが「ニセコルール」です。
ゲートは雪崩リスクの高い日には閉じられますが、低い日には開放し、個人の責任でコース外滑走ができます。こうしたルールを策定したことが画期的だとして、海外のメディアに注目されました。以降、「ニセコルール」圏内での死亡事故は起こっていません。
小田 コース外滑走による雪崩事故は、ニセコエリア全体のスキー場が抱えていた問題だったはずです。「ニセコルール」をエリア一帯で運用するには、関係者間の調整などにご苦労されたのではないでしょうか。
片山町長 「一町民が発信する雪崩情報が信じられるのか」「ゲートの開放時に事故が起きたら誰が責任を取るのか」などの声があちこちから上がりました。役場にも抗議の電話やメールなどが殺到し、疲弊した時期もありました。しかし当時の逢坂町長が全責任を負うと表明し、新谷さんの「ニセコなだれ情報」を役場が承認し、全スキー場に共有するという流れをつくりました。私は情報共有の体制をつくる実務を担当しました。
その後、隣の倶知安町役場や、北海道の出先機関である後志総合振興局、林野庁とも連携してエリア全体での「ニセコルール」の運用に至りました。
(第2回に続く)
※本記事の出典:時事通信社「地方行政」2024年11月11日号
【プロフィール】
片山 健也(かたやま・けんや)
1953年生まれ。物流業界での勤務経験を経て78年にニセコ町役場に奉職。町民総合窓口課長、環境衛生課長、企画環境課長、総務課参事等を歴任し、2009年7月に退職。同年10月に町長就任。現在は4期目。