「量」より「質」の自治体経営~井崎義治・千葉県流山市長インタビュー(1)~

千葉県流山市長 井崎義治
(聞き手)一般社団法人 官民共創未来コンソーシアム 代表理事 小田理恵子

 

2024/02/05 「量」より「質」の自治体経営~井崎義治・千葉県流山市長インタビュー(1)~
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2024/02/12 「選ばれるまち」になるためのマーケティング戦略~井崎義治・千葉県流山市長インタビュー(3)~
2024/02/17 「選ばれるまち」になるためのマーケティング戦略~井崎義治・千葉県流山市長インタビュー(4)~

 


 

毎年公表される「SUUMO住みたい街ランキング 首都圏版」(リクルート)で、順位が急上昇したまちがあります。つくばエクスプレス・流山おおたかの森駅などがある千葉県流山市です。同市は総務省の人口動態調査に基づく人口増加率が、全国の市区で6年連続トップを記録したまちでもあります。

人口が減少の一途をたどる縮退社会において「選ばれるまち」となった背景には、井崎義治市長の約20年に及ぶ緻密な戦略がありました。「井崎流」まちづくりについて伺います。(聞き手=一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事・小田理恵子)

 

就任前から市の課題を分析

小田 井崎市長は米国で都市計画関係の仕事に携わった後、流山市に移住しました。選んだ理由は何だったのでしょうか?

井崎市長 今から34年前に米国から日本へ帰国することになった際、住む場所をリサーチしました。次の勤務地が東京でしたから、その近郊で良いまちはないかと探したのです。

米国ではサンフランシスコとヒューストンに住んでいました。サンフランシスコは坂が非常に急なまちで、自転車のブレーキのかけ方を誤ると前のめりになって転げ落ちるほどでした。これでは高齢になったとき、自立的な生活ができないと思いました。一方、ヒューストンは真っ平らなまちで見渡す限りの大平原が広がっていました。この景観は、個人的にはつまらないと感じていました。

そうした経験から日本に住むなら丘陵地で、緑豊かな場所が良いと思って探しました。流山市を選んだのは、その条件を満たしていたこと、つくばエクスプレスができるという将来性、そして子育てしやすそうな環境からでした。

 

小田 リサーチして選んだまちの市長選に立候補されたのには理由があると思います。どのような課題を感じたのでしょうか?

井崎市長 帰国後も、しばらくは都市計画やエリアマーケティングの仕事をしていました。都市計画とは本来、そのまちの可能性を伸ばし、価値を高めていくために行うものです。しかし流山市では、だんだんと逆方向の施策が進められるようになりました。まちの可能性をつぶし、価値を低くするようなまちづくりが散見されるようになったのです。これに対し、非常に強い危機感を持ったのがきっかけです。

もともと住環境が良く、可能性があるとして選んだまちがその芽を摘んでしまっている様子を見て、都市計画の勉強と仕事をしてきた者として、いたたまれなくなりました。この状況を変えるためには市長になる他ないと考え、立候補しました。

 

小田 市長になる前から、市の課題について分析を重ねていたのですね。当時から相当な危機感を持っていらっしゃったのだろうと推察します。

井崎市長 ずっとまちづくりの専門家として仕事をしてきました。その地域を見れば、どんなポテンシャルを秘めていて、何をしなければならないかを考える習慣が身に付いています。可能性がある良いまちだと思って選んだ流山市が、ポテンシャルを引き出すノウハウやセンスを持ち合わせていなかったことに対し、何もせずにはいられませんでした。当時から市が抱える問題と、それに対する解決策が明白だったからです。

市長選に立候補する前の私は仕事人間で、地域活動などにもほとんど顔を出さず、地域で知られた存在ではありませんでした。しかし分析すればするほど、このままではまちごと不良債権になり、財政破綻する未来が予想できました。これはまずいと市や議員の方々に提言を行いましたが、危機感を共有できませんでした。ならば私が市長になるしかないと考え、妻の猛反対を押し切って立候補しました。自分の使命だと思ったのです。

 

まちの可能性をカタチにするために

(イメージ)流山おおたかの森駅

 

小田 「まちの可能性をつぶし、価値を低くするようなまちづくり」とは、例えばどんなことでしょうか?

井崎市長 例えば、戸建て住宅街の空き地に中高層マンションが建てられるといったことです。当時は日照や景観を巡り、いわゆる「マンション紛争」が市内の各地で起こっていました。

また、そもそもの都市計画自体が私から見ると行き当たりばったりの内容で、つくばエクスプレスが開業して区画整理が始まれば何とかなる、という考えで作られていました。国からは、市域面積の約18%に当たる627㌶がつくばエクスプレス沿線の区画整理事業の対象として割り当てられていましたが、当時の流山市の認知度は沿線の中で非常に低いものでした。さらに市では少子高齢化が急激に進んでおり、人口減少に転じるタイミングと宅地の販売開始時期が重なっていました。

このままでは、大量の宅地を売り出すときに認知度が低過ぎて選ばれません。宅地が売れ残ったら、確実に市の財政を圧迫します。そこで市の認知度を上げるとともに、プラスのイメージを定着させるための戦略を展開していかなければいけないと考えました。特に若い方々に選んでいただけるまちにすることが喫緊の課題でした。

 

小田 まさに都市経営的な発想ですね。

井崎市長 当時の流山市に対するイメージが「白紙」だったのは幸いで、チャンスはあると思いました。自治体によって、イメージが良く知名度のあるところ、イメージが悪く知名度のあるところと状況はさまざまですが、流山市の場合は地域イメージと認知度、その両方がありませんでした。ですから、とにかく早く、良いイメージのまちをつくるにはどうしたらよいか、戦略を常に考えていました。その結果、行き着いたのが、マーケティングに精通する人材を採用し、市役所内に「マーケティング課」を設けることでした。この構想は、市長になる前から持っていました。

 

小田 市長就任前から、そんな構想をお持ちだったとは驚きです。

井崎市長 私がかつて働いていたヒューストンもそうですが、米国では人口50万人以上の都市にはデベロップメント・オーソリティー(都市や地域の開発計画を監督・管理する公的な機関・組織)や、マーケティングを実践する組織があります。つまり自らのまちがどういうところで、どのような企業や個人に選んでほしいのか、ターゲティングが明確なのです。そして恒常的に、ターゲットに向けて情報発信をしています。

一方、日本においては駅前の再開発でビルを建てるときか、工業団地を造るときくらいしか、そうした活動を行いません。ですから市役所内に「マーケティング課」を設けることで、流山市が他自治体に先んじて取り組めると考えたのです。

 

小田 井崎市長が就任した2003年に「マーケティング室」が立ち上がり、翌年には外部人材を採用して課の発足に至りました。まちが持つポテンシャルを最大限に引き出そうとする井崎市長の意志が伝わってきます。

井崎市長 いくらポテンシャルがあっても、それを顕在化させる仕組みや努力がなければ埋もれてしまいます。可能性があると言っているだけでは意味がありません。それをどう顕在化させるのかが重要です。私は市政を経営と捉え、進めてきました。ですから自分のことを政治家ではなく「自治体経営者」だと思っています。

 

第2回に続く

※本記事の出典:時事通信社「地方行政」2023年12月11日号

 


【プロフィール】

千葉県流山市長・井崎 義治(いざき よしはる)

1954年生まれ。米サンフランシスコ、ヒューストンで都市計画やエリアマーケティングに従事した後、1989年から千葉県流山市に在住。住信基礎研究所、エース総合研究所を経て2003年4月流山市長選に初当選し、現在6期目。

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