「単独でも生き残る」覚悟決めて臨んだ5期20年~ 後藤正和・前徳島県神山町長インタビュー(1)~

前徳島県神山町長・後藤正和
(聞き手)一般社団法人 官民共創未来コンソーシアム 代表理事 小田理恵子

 

2024/07/09 「単独でも生き残る」覚悟決めて臨んだ5期20年~ 後藤正和・前徳島県神山町長インタビュー(1)~
2024/07/11 「単独でも生き残る」覚悟決めて臨んだ5期20年~ 後藤正和・前徳島県神山町長インタビュー(2)~
2024/07/16 まちづくりは町民連携と総合力~後藤正和・前徳島県神山町長インタビュー(3)~
2024/07/18 まちづくりは町民連携と総合力~後藤正和・前徳島県神山町長インタビュー(4)~

 


 

徳島県神山町を「地方創生の聖地」として認知している方は多いことでしょう。同町は徳島県の山間に位置する人口5000人弱の町ですが、関係人口を生むさまざまな取り組みで注目を浴びています。国内外の芸術家に創作活動と発表の場を提供する「神山アーティスト・イン・レジデンス」や、町の将来に必要な働き手を逆指名する「ワーク・イン・レジデンス」、求職者支援訓練プログラムの「神山塾」、学費無償の「私立神山まるごと高専」の開校など、ユニークな施策を次々に行ってきました。

そんな神山町の町政を5期20年間にわたり牽引し、昨年勇退された後藤正和氏のインタビューを前後編でお届けします。「単独でも生き残る」と、覚悟を持って臨んだまちづくりの足跡をご覧ください。(聞き手=一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事・小田理恵子)

インタビュー風景写真
インタビューは神山町にて行われた(出典:官民共創未来コンソーシアム)

「神山はもうあかん、生き残れない」の声

小田 後藤前町長は、2003年4月から23年4月まで首長を務められました。昨今は多選を批判するような意見が目立ちますが、私自身は、一人の首長が長くリーダーを務めたからこそ、実現できることも多いのではないかとの仮説を持っています。

そこでまず伺いたいのが、まちづくりが前進する手応えを感じた時期についてです。

後藤氏 最初に町の沿革からお話しましょう。神山町は徳島県内で9番目に大きい173.30平方㌔㍍の町です。1955年に5村(阿野村、下分上山村、神領村、鬼籠野村、上分上山村)が合併してできました。町の中心にはまるで背骨のように鮎喰川が流れていて、その上中流域に農地と集落が点在しています。そういった地形の影響もあり、上流部と中流部では人々の考え方がかなり違います。ですから、町長選のたびに地域間で意見の対立が起きており、短期間で町長が交代することもよくありました。

それが、私が初立候補した2003年は無投票選挙で就任が決まりました。この流れはチャンスだと思いました。これまで通り地域同士でバトルばかりしていては、政策が二転三転し地に足の着いたまちづくりができません。まずは地域間の溝を埋めて、町全体に平和な雰囲気をつくることから始めました。それが手応えを感じられるまでに、1期4年かかりました。

 

小田 神山町は、平成の大合併の際に地域の統合を行っていません。これは町民の総意だったのですか?

後藤氏 平成の大合併の時期は、私が町議から町長になるタイミングと重なります。当時、合併反対派の意見を持つ議員はごくわずかでした。前任の町長は合併推進派でしたし、町民もほとんどが合併を望んでいました。そんな中、私が無投票で町長となり、合併しないという選択をしました。ですから、就任当初の町の雰囲気はひどいものでした。「神山はもうあかん、生き残れない」という声がしきりに上がっていました。

 

小田 逆風が吹く中での1期目だったのですね。

後藤氏 単独で生き残るという選択をした以上、私がなんとかしなくてはならないと覚悟を決めました。そこで、町に埋もれた資源を掘り起こし、外から人を呼び込む政策を展開しようと考えました。政策のヒントになったのが、1989(平成元)年に当時の天皇、皇后両陛下がご臨席された全国植樹祭です。その式典には全国から約1万2000人が集まり、会場の県立神山森林公園から近隣の温泉宿泊施設まで人の流れができました。宿泊施設の人気は上々で、経営も赤字から黒字に転換したといいます。この事例から、町に当たり前のようにある自然や施設が資源になると確信しました。

 

小田 後藤前町長が考える町の資源とは、具体的にはどういうものですか?

後藤氏 私は「山川学校の卒業生です」と自己紹介するくらい、子どもの時から神山町の山や川で遊び、親しんできました。例えば、冬になると荘厳な氷瀑を見せる「神通滝」や「雨乞の滝」は、町が持つ大きな資源の一つです。それから、「阿川梅の里」と呼ばれる四国で一番面積の大きい梅林もあります。

 

小田 豊かな自然は、都市住まいの方にはとても魅力的に映るものです。しかし、地元で暮らす方にはぴんとこないかもしれません。町民の皆さんに「町の自然が資源である」と気付いていただくために何かされたのですか?

後藤氏 おっしゃる通り、町民の皆さんのモチベーションを上げる必要があります。そこで、町の自然や施設などを写真パネルにして各地区の会合に持って行き、「神山にはこんなに素晴らしい資源がある」と説明して回りました。「植樹祭が行われた神山森林公園の来訪者数は年間27万人」「四国霊場12番札所の焼山寺の来訪者数は年間16万人」「神山町は、すでに年間50万人以上を集める力がある。各地域が頑張れば年間100万人は到達できる」というように、具体的な数字を添えて伝えました。

 

小田 町民の方たちに、町に対する自信を持っていただくよう働き掛けたのですね。

後藤氏 そんな中、「阿川梅の里」で梅の花の開花時期に合わせて行う「梅まつり」のPRを強化していきました。「阿川梅の里」は、旧阿野村地域にあります。住民の皆さんは、地域を盛り上げるために立ち上がってくれました。私自身も、都市から訪れる人を増やそうと、高松や大阪などに何度もPRしに行きました。

旧阿野村地域の住民と行政がタッグを組んで「梅まつり」を盛り上げている様子を見て、他の4地域の人たちはどうなったと思いますか?「阿川があんなに盛り上がっているのなら、うちの地域でもできるはずだ」と、他の地域でも次々に町おこしの企画が行われるようになったのです。

 

小田 これまで対立していた地域同士が、良いライバルへと変化していったのですね。

後藤氏 どうすれば、住民の皆さんのやる気を引き出せるかと考え続けてきました。就任から4年たって、ようやく地域間での争いから良い競争へシフトしていきましたね。NPO法人「グリーンバレー」をはじめとする複数の地域おこしの団体が生まれたのもその頃からです。

 

10年に及ぶ生き残るための施策

小田 地域同士が良い競争をするようになってからは、まちづくりが円滑に進むようになりましたか?

後藤氏 次は、小泉改革への対応を迫られました。行政の仕事を民間に委託するよう国から通達があり、各種補助金や地方交付税が減りました。苦しいですが、神山町の人口推計を考えるとやるしかありません。強烈な行革を行いました。

町には当時、旧村単位で五つの支所がありました。それぞれに職員がいたわけですが、私はそのうち一つを残して、あとの四つを公民館にしました。職員の数も約半数に削減しました。

 

小田 合併した自治体における公的施設の統廃合は地域間の軋轢を生む可能性が非常に高いです。もともと旧5村の間で燻っていた対立心は再燃しませんでしたか?

後藤氏 当然、各地域からの抵抗はありました。ですが人口減少は現実化していました。どんどん高齢化が進み、若者が外に出て行く様子は明らかでした。手を打たなければ生き残れません。覚悟を示すために、支所の統廃合の前に職員の給与カットを行いました。私も含めて全員です。

 

小田 それはかなり思い切った改革をされたのですね。職員の皆さんはどういった反応でしたか?

後藤氏 大きな抵抗はありませんでした。人口減少が目に見えて進む中、職員にも町民の間にも「神山町はもう続かない」という空気が蔓延していました。そもそも人がいなくなれば、役場の存在価値はありません。「このまま行けば、将来役場がなくなるかもしれない。自分たちは何のために仕事をしているのか?」と仕事の原点を説明し、給与カットについて納得してもらいました。

 

小田 当時の職員の方たちの間にも危機意識があったのですね。

後藤氏 今から振り返ると、5期20年のうち前半10年くらいは「単独で生き残るための施策」に費やしました。かなりハードでした。流れが変わったのは2004年度に国の補助事業として行った「光ファイバ網設備整備事業」でした。四国で最も早く町内全域に高速ブロードバンド網を整備したことがきっかけで、情報発信力が格段に上がりました。

 

小田 メディアでも大変話題になった「ワーク・イン・レジデンス」の取り組みにつながったのですね。

後藤氏 この取り組みは、NPO法人グリーンバレーが推進役を担いました。「イン神山」というウェブサイトを立ち上げ町の魅力を発信するようになると、古民家に関するページに多くのアクセスが集まりました。これにより移住の需要があると分かったので、町の将来に必要な働き手を「逆指名」するという形で空き家の入居者を募集しました。その後もグリーンバレーの皆さんの積極的な活動のおかげで人が人を呼び、東京に本社を構えるIT系企業等のサテライトオフィスが次々と町内にでき、雇用も促進されました。

 

小田 今でこそサテライトオフィスやテレワーク、ワーケーションは市民権を得ていますが、04年の時点ではかなりのインパクトでしたよね。

先ほど後藤前町長がおっしゃった「単独で生き残る」という言葉に強烈な印象を受けました。首長を務める間、まちづくりの大きな柱になっていた考え方なのだと感じます。

後藤氏 まずは自ら覚悟を示さないと物事が始まらないですよね。やはり、範を示そうという姿勢が大切だと思います。

 

第2回に続く

※本記事の出典:時事通信社「地方行政」2024年5月20日号

 


【プロフィール】

後藤前神山町長後藤 正和(ごとう・まさかず)

1950年生まれ。神山町議会議員を経て、2003年4月に同町就任。

2023年4月まで5期20年の間、町長を務めた。

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