パブリックで輝くひと【第4回】誰もやらないなら俺がやる!地方議員から環境汚染対策のプロフェッショナルへの転身

<パブリックで輝くひと> 竹内忍一さん
元大阪府吹田市議会議員(第67代 市議会議長)
(現)東芝環境ソリューション株式会社

<聞き手>
WOMANSHIFT 本目さよ(台東区議会議員)
たぞえ麻友(目黒区議会議員)
ママインターン

(インタビュー実施日:2021年9月9日)

「パブリックで輝くひと~多様なキャリアが社会を動かす~」第4回のインタビューは、大阪府吹田市議会議員を2003年から3期12年務め、2012年度には吹田市議会議長を経験された後、落選を機に民間企業に転身し、現在は環境エンジニアリング部門の部長職としてリーダーシップを執られている、竹内忍一さんです。

「忍一」というお名前は、実は誕生当時の吹田市長が名付け親。「私が生まれた1975年5月14日は、当時の市長の2期目任期が始まる日でした。その時の心境が “忍の一字”(耐え忍ぶこと)という文字に現れていたのでは」と話す竹内さん。生まれながらにして地元や吹田市政に縁があり、37歳で歴代最年少の議長まで務められたのは必然だったのかもしれません。竹内さんはなぜ議員から民間へ転身したのか、どんな思いを軸にキャリアを歩まれているのか、さらには京都大学博士(法学)という学位や監理技術者(大規模な工事で配置が必要な監督者)という技術系資格をもつ異色のキャリアについても伺いました。

準大手ゼネコンから吹田市議へ―キャリアを変えた2通のラブレター

本目 竹内さんのプロフィールを拝見すると、本当に気になるところばかりです。まず、議員になられた理由から教えていただけますか?

竹内さん 1998年に大学を卒業し、当時の準大手ゼネコン(熊谷組)に就職しました。映画「黒部の太陽」を見て感化され、世紀の難工事に挑んだゼネコンにラブレターを書き、面接に押しかけて、すでに終了していた採用試験に無理矢理入れてもらった経緯があります。3年半ほど勤め、建築・土木の現場を体感し、後に実務経験を積んで監理技術者の資格を得ました。

吹田市議選に初挑戦(27歳)

吹田市議選に初挑戦(27歳)

27歳の時、父親から一緒に仕事をしないかと誘われて故郷の吹田市へ戻ったのですが、一緒に商売をすることはなく、新聞広告で見つけた民主党の地方議員の公募に応募しました。その時は公募論文というラブレターを書いたのですが、それが(当時)衆議院議員であった藤村修先生の目に留まって、実際にお会いする運びとなりました。面接では「君、おもしろいな。一緒にやろうか!」と誘われて、その日のうちに出馬することになり、トントン拍子に党からの公認が決定しました。2002年11月のことでした。年明けから始動して、準備期間はたったの4ヶ月、2003年4月の選挙で初当選しました。

本目 そんな経緯だったのですね!驚きです!吹田市議として3期12年、どんな活動に力を入れていらっしゃったのですか?

竹内さん 議長と議会運営委員長を務めた2年間で、市議会の中で変革を起こせたと思っています。その時に先例集(議会運営に関するこれまでの事例・慣例でおおむね妥当と認められてきたものを集めた書物)が大きく書き加えられることにもなりました。具体的に言えば、議員提案による条例や規則の改正をいくつか提案しました。行政側からの提案に、議員は賛否を示すだけという“追認機関”なら、議会の権能を充分発揮しているとは言えないでしょう。

本目 具体的にはどういう条例や規則の改正に取り組まれたのですか?

竹内さん 1つ例を挙げると、当時、議員は議会に出席してもしなくても、報酬が振り込まれる仕組みになっていました。長期にわたって病欠した議員や失踪した議員にも報酬が振り込まれる事例があったので、長期欠席した議員の報酬を減らす条例の素案を作りました。

たぞえ 2021年の今、そういう条例を議論している議会もある中で、吹田市議会は取り組みが早いですね!竹内さんは3期12年で、吹田市をどうしていこうというビジョンをもたれていたのですか?

竹内さん ゼネコン出身としては、街中に木を植えたい、緑化をしたいと思っていました。「花いっぱい運動」のような、未来志向な気持ちで議員活動をしていましたね。でも、最後の4年間は、「この事業は赤字を許容してでも自治体がやるべきなのか」「この補助金は切っても影響がないだろう」とか、そういうコストカットのために戦っていたら、いつの間にか12年が終わってしまいました。

たぞえ 竹内さんの強い正義感を感じます。私も何か目に付くとすぐ担当課長に電話してしまうので、お気持ちよく分かります。地方議会って、議員が質問して、理事者(行政の管理職)が答弁するという形式ですが、本来は議員同士で議論をしたいですよね。

竹内さん 議会というのは、本来議員同士で討議する場なのです。ただ、上程する議案が理事者提案であれば、議員だけでは分からないことが多いので、説明員として各部長級(理事者)に出席依頼をします。議員の質問は説明員を攻撃する場だと誤解している地方議員も多いのですが、「説明員は不要です。議員同士で話し合って決めます」という形が本来の姿なのです。ただ、それを可能とする調査機能や人的な資源というリソースが議会にないため、非常に難しいことではありますが、議員は高い意識をもって討議に取り組むほうが良いと思います。そして自分たちで議員立法を作っていき、まちのルールは自分たちで決めるのだというくらいの気概があると、なお良いですね。そうしていかないと、議員はYesかNoかだけ言わされ、議会は行政執行部の追認機関に成り下がってしまうのです。

たぞえ なるほど。目からうろこです。本来、自分たちで全部調べて議論すれば良いわけですね。それが議会のあるべき姿なのですね。やはり議長のご経験があるので、議会の本質、問題の本質というのを見抜かれていらっしゃるのだなと思いました。

竹内さん 議長は、表舞台である議場では単なる行司でしかありませんが、そこに至るまでに議会を円滑かつより良い議論の場を提供するために戦略を練っています。各議員から挙げられる質問、それに対する理事者の対応、要求される資料の内容などがすべて議長のところに上がってきますから、誰がどういう姿勢で仕事しているか、手に取るようにわかります。いつ、どんなメンバーを集めて、どんな議題を議論するか、どういう落とし所があるのか、見極めが大切です。(この記事を読んでいただいている議員の方向けに言うと、どんな議案を即決に回し、常任委員会へ付託するのか、どんな順番で議論するのか、議会運営委員会へ委ねるための素案を入念に考えていました。)そういう議会を俯瞰して見られる立場を経験できたのは大きかったですね。

第67代 吹田市議会議長(37歳)

第67代 吹田市議会議長(37歳)

 

本目 竹内さんは、議員になられてから、大学院にも通われていましたよね?

竹内さん 大学院での勉強はとても苦労しました。27歳で初当選してしまったので、右も左もわからず、「これは基礎から勉強しないといけない」と思って、京都大学公共政策大学院の門を叩きました。公共政策修士(専門職)という学位を取りまして、普通ならここで止める人が多いのですが、私の場合は勉強そのものが楽しくなってしまい、博士課程で学び続けることにしました。
博士課程は通常3年なのですが、市議会で議長という重責も降ってきて、論文どころではなくなって休学した期間もあったため、結局博士課程に6年間通いました。修士2年・博士6年、合計8年間は長かったですね。38歳の時に博士号の学位を取得しました。

本目 その学びは今のお仕事にも活きているものですか?

竹内さん 今の職場は理系技術者の集団です。環境課題をエンジニアの視点から解決していく仕事ですので、博士(法学)という学位は直接関係がありません。ただ、記述で客観面を重視するという訓練を積みましたから、思考の面で、物事を深堀し、論理立てて考えていくことが自分の強みになりました。そういう意味では大学院での学びや学位が役立っているのかもしれません。

博士号取得者のみ着用可の紫ストール

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