首長のセカンドキャリアとは ~元佐賀県武雄市長、現樋渡社中Founder & CEO・樋渡啓祐氏インタビュー(1)~

元佐賀県武雄市長、現樋渡社中Founder & CEO 樋渡啓祐
(聞き手)Public dots & Company 代表取締役/官民共創未来コンソーシアム代表理事 小田理恵子

 

2022/05/18 首長のセカンドキャリアとは ~元佐賀県武雄市長、現樋渡社中Founder & CEO・樋渡啓祐氏インタビュー(1)~
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2006〜14年に佐賀県武雄市長を務め、次々と行政改革を推し進めた樋渡啓祐氏。今や年間100万人の来場者を誇る武雄市図書館は、樋渡氏が市長時代にDVDレンタルなどの「TSUTAYA(ツタヤ)」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の社長と直接交渉し、リニューアルが実現。従来の常識を覆したカフェ併設の図書館として話題になりました。

また、民間譲渡を通じて市民病院の経営再建を図ったり、全国に先駆けて情報通信技術(ICT)教育を小学校に導入したりするなど、大胆かつスピード感のある施策を手掛け、たびたび注目を浴びました。

 

そんな樋渡氏は現在、まちづくり支援などを手掛ける樋渡社中株式会社の代表取締役を務めています。キャリアの転機は15年の佐賀県知事選での落選でした。「首長のセカンドキャリア」という、あまり表に出ることのない道のりについて、試行錯誤したエピソードを交え、赤裸々に語っていただきました。(聞き手=Public dots & Company 代表取締役/一般社団法人官民共創未来コンソーシアム代表理事・小田理恵子)

 

官から民へ

小田 今回は「首長のセカンドキャリア」をテーマに伺います。

樋渡氏 僕は15年に佐賀県知事選に落選しましたが、それからの話は確かに公にはしていませんでしたね。あれから7年たちましたが、とても面白いですよ。

まず、知事選の時からお話ししましょうか。実はあの時、投開票日の3日前に「負ける」と悟ったのです。最初はまさか負けるとは思っていなかったのですが、風のにおいや向きが変わったと言いますか、「何かが違う」と感じました。だから何を考えたかというと、敗戦の弁でしたね。「政界を引退するのか」など、記者から質問されるであろう内容に対しての答えを準備した記憶があります。

当時、僕が佐賀県知事になることを見越して、既に講演のオファーが20本くらい入っていました。しかし落選したことで、すべてキャンセルになりました。

 

小田 地位がなくなったからですか?

樋渡氏 僕はそういうふうに捉えましたね。びっくりしましたが。樋渡啓祐を呼んだのではなく、佐賀県知事を呼んでいたのだと思いました。日本はこうやって肩書が重視される傾向がありますよね。武雄市長時代に僕の周りにいた人は、ほとんど去って行きましたね。唯一残ってくれたのが、きょう同席している秘書です。

 

小田 樋渡さんほどの実績と影響力のある方でも、そんなふうになってしまうのですか?

樋渡氏 知事選に落ち、最初に思ったことは「税金を支払えるのだろうか」でした。セカンドキャリアなんて全く考えていない中で、いきなり所得がゼロになりましたからね。失業保険もありません。だから生活保護の申請を半ば真剣に考えましたよ。

 

小田 首長を務めた方でも、ひとたび落選すると、そこまで思い詰めなければならないのは日本全体の問題ですね。

樋渡氏 日本の場合、セカンドキャリアを考えながら政治家を務めるのは何となく不道徳だという風潮がありますが、そのメンタリティーは今後変える必要があると思います。「選挙に負けた政治家は格好悪い」「戦いに負けた人間は惨め」という風潮にも違和感があります。むしろ「負けた方が数倍、格好良い」と思われる、そんなロールモデルをつくれないかと奮起した記憶があります。

 

樋渡氏へのインタビューはオンラインで行われた。

 

失敗から得た気付きと原点

小田 知事選に落選してから現在に至るまでのお話を詳しく伺えますか?

樋渡氏 ここからは初めて話すことですが、「選挙に負けても格好良い人生」を体現するぞと奮起したわけです。しかし、そうは言っても仕事がない状態がしばらく続きました。そのうち講演依頼がぽつぽつと入るようになりましたが、交通費を捻出したら赤字になる金額での依頼でした。それでも絶対に手を抜かずに登壇しました。この「絶対に手を抜かない」というのは、僕の数少ない美徳の一つです。

そうしていくうちに講演が全国各地に口コミで広がり、年間で120回ほど登壇するようになりました。1回当たりの講演料も段々高くなっていきました。ついには、とある世界的な企業からの依頼がびっくりするような金額でくるまでになりました。

講演先ではいろいろな人たちとのつながりができます。その方たちにまちを案内していただく中で、まちづくりのアイデアを伝えたりもしました。今ではそのアイデアのうち、幾つも花が咲いているものがあると耳にします。

振り返ってみると、今経営している樋渡社中の地盤は、この全国各地での講演活動で固まったように思います。まずはオーディエンス(聴衆)に求められたものに懸命に応えて報酬を得る。そして「自分なんか選挙に負けて無価値」と思ったところから自信を回復する。さらに、行った先のまちを具体的に見て課題解決の方法を考える。これらの蓄積が今につながっています。

 

小田 樋渡社中のウェブサイトには「今まで国家公務員、地方公務員、首長(政治家)、そして今は、起業家として皆さんの地方創生に関する活動をサポートすることをメインにしています」とあります。セカンドキャリアとして起業家の道を選びつつもソーシャルに目を向けた活動をされている背景には、そんな経緯があったのですね。

樋渡氏 僕の原点は「社会問題を解決すること」です。僕は子どもの頃、集団行動が苦手で幼稚園や小学校は不登校気味でした。高校受験は志望校に受かりませんでしたし、やっと進学した高校でも先生との意見の食い違いから引きこもりになりました。

そんな折、たまたま隣町の町長の講演を聞く機会があり、そこで聞いた話にとても感銘を受けました。そのとき、登壇していた町長に「僕は集団行動ができません。協調性もありません。高校は退学寸前です。こんな僕でも、あなたみたいな仕事ができますか」と質問したのです。町長は間髪入れずに「だからこそ、できるんだ」と返してくれました。この体験が僕にとって人生を根こそぎ変える転機になっています。政治家を目指したのも、この体験があったからこそでした。

知事選に落ち、起業してからは正直なところ、仕事はうまくいかず、投資関係のトラブルにも遭いました。そんな中、改めて原点に返ろうと思ったときに、僕の中では「社会問題を解決する」が真ん中にあることに気付いたのです。

 

小田 原点に立ち戻ったからこその気付きもあったと思いますが?

樋渡氏 自分が大して知らない分野に関しても、妙な自信を持っていたことに気付きました。先ほどの話で言えば、投資がそれに当たります。武雄市長時代には市民病院を民営化したり、CCCを指定管理者とした図書館改革などを行いました。病院や図書館という自分の専門分野ではないところで実績を挙げたこともあり、起業後も同じように、知らない分野にも幅広く対応できると思っていました。

しかし、それは長い下積みとも言える役人生活、24時間仕事に打ち込んだ市長時代を経て、「成功の型」が知らず知らずのうちにできていたからだと思うのです。起業やビジネス、投資の世界では素人でした。やはり各分野の「成功の型」を知らず、やみくもに行動しても頭打ちになるのです。

例えば超一流の野球選手は、打撃やピッチングの「フォーム(型)」をとても大切にしますよね。正しいフォームを全く知らない人がバットを振り回しても当たらないでしょうし、運よく当たったとしてもボールの飛距離は出ないでしょう。「型」を知らないと、どうしても瞬間風速的になります。

さらに言えば、「型」というのは「自分が得意なこと」なのです。投資での失敗もそうですが、今は他の人たちの失敗事例も7年間でたくさん見てきました。だから、知らない分野や不得意な分野を追い掛けるのはやめて、得意分野に集中しようと思ったのです。

 

小田 樋渡さんの得意分野とは何ですか?

樋渡氏 「組み合わせ」です。例えば総務省から大阪府高槻市に出向していた時代には、放置自転車の地域課題をヤフーオークションと組み合わせて解決しました。持ち主が現れない自転車をオークションで売り、処分費用を浮かせたのです。

武雄市長時代には図書館とTSUTAYAを組み合わせたり、市ホームページとフェイスブックを組み合わせ、アクセス数を400万倍にしたりしました。クリエーティブなことはできませんが、こんなふうに何かと何かを組み合わせてパフォーマンスを引き出すことは得意なのです。

 

第2回に続く

 


【プロフィール】

元佐賀県武雄市長、現樋渡社中Founder & CEO・樋渡 啓祐(ひわたし けいすけ)

1969年佐賀県武雄市生まれ。93年総務庁(現総務省)に入り、大阪府高槻市市長公室長などを経て、2005年退職。06年、当時全国最年少の36歳で武雄市長に就任。3期目の途中に辞任し、15年1月の佐賀県知事選に出馬するも落選。現在は樋渡社中株式会社代表取締役として、まちづくり支援などを手がける。

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